私は江東区の女の子が好きだ。足立区じゃ駄目だ。世田谷区でも駄目だ。
出来れば砂町周辺の集合住宅の合間にあらわれる、小さな一区画の公園にいる女の子がよろしい。
江東区の女の子は内なる可能性にあふれている。
そもそも江東区には中流のちょっと上くらいの家庭が多い気がする。(完全に独断と偏見です)
中流の上というポジションは非常に色々な可能性を秘めているポジションで、ありとあらゆる将来に対して可能性が開けていると思うのだ。
頂上から底辺まで、およそ私たちの思いつく限りの将来像が彼女らの可能性はカバーし得る。
そう感じるのだ。(完全に独断と偏見です)
今私の目の前、亀戸三丁目の蔵前通り沿いを歩いている女の子の未来を想像した時、私はその無限とも思われる可能性に打ち震える。震えるしか対処の仕方を知らないので、震えるしか無いのだ。
この完全受動の震えこそ「感動」であり、この「感動」を伝えることのできる人間になりたい。
また、この「感動」をもっともっと感じたいのだ。
嗚呼、もっともっと感動を
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